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力強く生き抜いた盲目の女性旅芸人たち
かつて「医療」「福祉」といった言葉や制度が確立していなかった時代に、視覚障がいがありながらも芸を身につけることで社会的に自立し、力強く生き抜いた女性たちがいました。「瞽女(ごぜ)」と呼ばれた人たちです。彼女たちは、三味線を持って各地を巡り、演奏や自らの生き方を通して多くの人に娯楽や感動を与えてきました。現在、瞽女と呼ばれる人はいませんが、その文化や彼女たちが歌っていた「瞽女唄」を知ってもらおうと、ミュージアムが開館したり、映画が公開されるなどしています。歴史をひも解きつつ、瞽女唄を今も歌い継ぐ人などを取材しました。
人々に生きる活力を
三味線を携えて、各地の村を巡っていた彼女たちは、3~4人が1組になり、弱視者を先頭に、親方、弟子の順番で列をつくって移動していました。年間約300日、決まった日程やコースを歩き、雨の日も雪の日も草鞋を履いて杖をつき、各地の農山村に行っては、演奏する日々を過ごしていました。瞽女の修行は厳しく、楽譜も録音機もないため、師匠の歌声を耳で聞き、歌い方や歌詞、三味線の演奏方法などをまねして技術の習得に励み、生きるために一流の芸を身に付けて、生計を立てていました。
瞽女唄の演目は幅広く、100種類以上もあります。民謡や流行歌、歌舞伎や浄瑠璃といった段物、数え歌など三味線を弾きながら歌います。また、聞いている人に喜んでもらうため、自由に歌われるのも特徴です。そのため、隣村で耳にした話や出来事などを、即興で歌にしていたといわれています。
目が見えないにもかかわらず、山道や峠道を雨の日も雪の日も遠くから歩いてくる彼女たち。受け入れる側の村人は「瞽女さんがケガもなくここまで来られるのは神様に守られている」「文字も読めないのに、長い歌をいくつも知っている。何か不思議な力を持っているに違いない」など、彼女たちに敬愛の念を表して、もてなしていたようです。そのため、村には庄屋や地主が運営する瞽女を無償で泊める宿もありました。
瞽女は村に到着後、あいさつ代わりに村人の家の前で演奏する「門付け」を行っていました。この門付けを聞くと村の人たちは、「瞽女さんが来る季節になった」と喜び、玄関を開けたりしていたそう。そして、遠いところから来てくれたことに感謝を示し、お米などを「おひねり」として渡していました。
村人たちは夜になると、瞽女宿に集まります。瞽女がいた当時、農村などでは貧しい家庭も多く、一生を農作業に明け暮れる人が多くいました。そのため村から出ない人たちにとっては、年に1、2回訪れてくれる瞽女の唄を聞くことは、この上ない楽しみだったそうです。村人たちは娯楽や生きる活力を与えてくれる瞽女に対し、心酔し、涙を流し、歓喜に満ちた拍手を送っていました。
また村人には、彼女たちは目が不自由な代わりに、神様から霊力を授けられていると信じられていたため、村人が瞽女に渡したお米を瞽女宿が買い取り、それを村人がまた買い戻していました。これを「瞽女の百人米」と呼び、「食べると健康になる」「子どもの頭がよくなる」などと言われていました。
瞽女ミュージアム高田(新潟県上越市)を運営している「高田瞽女の文化を保存・発信する会」の小川善司事務局長は、「瞽女と聞くと盲目であることや、厳しい掟に縛られていることから、『大変な人生を送った』と想像されがちですが、歴史をひも解き、知れば知るほど彼女たちがこの仕事に誇りを持って、力強く自立した人生を送っていたことに感動を覚える」と強調。その上で、「瞽女という存在が今も昔も変わらず、多くの人に勇気を与え、明日も頑張って生きようとする活力をもらえる」と話しています。
歴史は古く、室町時代から存在
瞽女の誕生は室町時代とされています。当時の職業図鑑といわれる「七十一番職人歌合」には、鼓を持つ盲目の女性と、盲目の琵琶法師が並んで描かれています。この絵の中には、草履と杖が近くに置いてあることから、室町時代当時から、各地を巡って人前で芸を披露していたことが分かります。江戸時代中期に三味線が普及すると、瞽女は三味線の弾き語りで人の家の前で演奏してお礼をもらう「門付け」をするようになりました。その後、居を構えて定住し、仲間組織をつくって親方の下で芸を磨き、集団で行動することになりました。当時、幕府は目の不自由な人に対して保護政策を行っていましたが、人権の概念すらない時代だったため、当事者の権利を尊重しようとする制度ではありませんでした。
新潟県では明治時代初期頃、米作りをする農家が多いこともあり、全国1位の人口数だったことがあります。このため瞽女が訪れて芸を披露する場所も多く、最盛期には上越市の高田地域に89人もの瞽女が集団生活していた時期もあったほどです。これが新潟県内に瞽女文化が長く続いた理由の一つといわれています。
しかしその後、戦争の影響で瞽女は次々と廃業。さらに時代が進み、テレビやラジオ、新しい歌謡の登場など逆風が吹きましたが、新潟県には瞽女の文化が残りました。そして2005年に、「最後の瞽女」と呼ばれ国の「記録作成等の措置を講ずべき無形文化財」に認定された小林ハルさんが亡くなったことで、瞽女と呼ばれる人がいなくなりました。
そうした中、現在も瞽女唄を受け継ごうとする動きがあります。
長野県に住む広沢里枝子さんもその一人。ラジオパーソナリティーとして活躍する傍ら、学校や公民館などで瞽女唄を歌い継ぐ活動をしている広沢さんは、網膜色素変性症により26歳で全盲になりました。瞽女唄との出合いは小林ハルさんの歌声でした。「ラジオの仕事で小林さんにお会いした際、歌声を生で聞かせてもらいました。当時101歳とは思えない歌声で、雷に打たれたような衝撃を受けました。涙が止まらなかったのを今でも覚えています」と振り返ります。
その後、小林さんの最後の弟子である萱森直子さんの舞台を訪れ、「これが私の歌いたかった唄だ」と強く実感し、その日のうちに萱森さんへ弟子入りを志願しました。広沢さんは瞽女唄について、「瞽女さんが生きてつないでくれた唄です。彼女たちが残したかったものが、そのまま残っている〝宝の山〟です。命ある限り、これからも歌い続けていきたい」と決意していました。
生きてつないだ瞽女唄を後世に
「最後の瞽女」小林ハルの最後の弟子・萱森直子さん
https://bit.ly/3wquowF
Q 瞽女の魅力とは
寄席は漫才やコント、落語、講談などが集まって、一つの寄席が完成しますが、瞽女は寄席を一手に担っていた存在です。さらに、瞽女唄は人から人へ伝わってきたから著作権がなく、人によって歌い方や表現の仕方が全く違うため、アレンジや即興で毎回違う曲に変化します。瞽女唄に対して古い芸能のイメージを持つ人がいますが、伝わってきた人や、その時代とともに少しずつ形を変えている。聴けば聴くほど奥深くて魅力あるジャンルだと感じます。
Q 小林ハルさんとの思い出は
個々の能力や人との縁など、人生において「授かりもの」を意味する「さずきもん」という言葉をよく使っていました。「お前の唄は『さずきもん』だ」「『さずきもん』さえ大事にしていたら、何があったって怖いことはない」と、よく言われました。ハルさんは多くの人が持つ〝見える目〟を授からなかったけれども、授かったものを大事にして磨かれた。その言葉から自信や誇りを感じ、今でも大切にしています。
Q 瞽女唄の演奏時や伝承活動で心がけていることは
披露する際、独特の響きと迫力はとても意識します。瞽女唄がこれからも残っていくために、瞽女唄ならではの魅力を失わないことが大事だと思います。一方で、掟や身なり、慣わしといった〝瞽女らしい振る舞い〟はしないようにしています。私は瞽女ではないので、これまでの瞽女さんに失礼になりますから。
Q 瞽女への思い
昔の視覚障がい者の働き口といえば、瞽女か按摩かの2択でしたが、現在では就ける仕事の幅も変化している上、福祉制度も充実しています。瞽女という仕事がなくても生活できるようになった一方で、瞽女を復活させようと考えている人もいます。私は瞽女を復活させるより、瞽女の強く生きた証や瞽女唄の灯を絶やすことなく、発信し続けることが大事だと思っています。人から人へと伝わってきた瞽女唄を、これからも歌い続けていきたいです。