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公明党の政治姿勢の“原点”の闘いは参院で展開され、現在まで受け継がれている。政治を切り開いてきた参院公明党の闘いを紹介する。
桜舞う4月、子どもたちが教室で真新しい教科書を受け取る……。この当たり前となった光景の陰には、公明の粘り強い取り組みがあった。
「何はさておいても中学3年までの教科書代を無償にすべきです!」
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公明党の政治腐敗と闘う原点の一つが、結党3年目にして佐藤栄作内閣を追い込み、「黒い霧解散」につながった国会論戦だ。1966年9月、参院公明党が決算委員会で追及の口火を切った共和グループへの不正融資問題が、「共和製糖事件」として与野党を巻き込む政界疑獄へと発展していく。
「手を引かなければ、命の保証はないぞ」。脅迫の電話や投書にも屈せず、公明議員は追及を続けた。
1960年代、高度経済成長の一方、深刻な公害が各地で表面化した。富山県の神通川流域で多発していたイタイイタイ病も、その一つ。骨が極端にもろくなって骨折を繰り返し、痛みで泣き叫ぶ声が、この病名を生んだ。原因は上流の鉱山からの排水に含まれる重金属カドミウム。だが、行政や地元議員は黙殺していた。
参院公明党の矢追秀彦氏は現地に足を運び、患者らの悲惨な状況を涙ながらに調査した。「こんなことが許されていいのか!」と憤り、67年5月に国会で初めてこの問題を取り上げた。しかし、政府は「原因が分からない」の一点張りだった。
参院は、平成最初の1989年参院選で自民党が過半数割れしてから大半の期間で、単独過半数を占める政党・会派が出ていない。そうした中、公明党は、国政の重要な局面で“日本のかじ取り役”を担ってきた。
象徴的な取り組みが、キャスチングボート(政策決定権)を担った90年代にある。日本の国際平和貢献に道を開いた「国連平和維持活動(PKO)協力法=現・国際平和協力法」、“日本発の世界恐慌”を回避した「金融早期健全化法」の実現だ。
1997年11月、日本経済は“沈没寸前”の危機的状況にあった。北海道拓殖銀行、山一証券といった金融機関が相次いで破綻。同7月のアジア通貨危機の影響で不況が深刻化し、日本は未曽有の経済危機に直面する。
市場からは、著しい円安・株安の危険信号が発せられ、財政出動による景気の下支えが求められていた。にもかかわらず、当時の自民、社民、さきがけ3党連立政権は真逆の緊縮財政にかじを切るという過ちを犯した。景気は凍りつき、“日本発の世界恐慌”の恐れが現実味を帯びていった。
「混乱と停滞」などと総括される民主党政権(2009年9月~12年12月)で、消費税率を5%から10%に引き上げ、増収分を社会保障の充実・安定に充てる「社会保障と税の一体改革」実現の原動力となったのは公明党だった。12年当時、衆院で与党、参院で公明党を含む野党がそれぞれ多数派を占める“ねじれ国会”にあって、「一体改革」関連法案を成立させるため、公明党は生活者目線から与野党の合意形成をリードした。
近年の公明党の実績には「社会保障と税の一体改革」から始まったものが多い。
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